torink’s blog

日々の出来事や、気になること、人には言えないようなこともここで言っちゃいます。

高須医院長がさっきからツイッターで、「いい人生だったな」って…

高須医院長大丈夫なのかな…

なんだか意味深…


「いい人生だったな」って連投しているけど…

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心配ですね…

高須医院長のこと調べてみました

学生時代 編集
愛知県幡豆郡一色町(現在の西尾市)に生まれる。生家は江戸時代から続く医師の家系で[1][8]、戦後の農地改革などで財産の大半を失ったが[8]それでも裕福な家庭に育った。学校では、石を投げられる、所持品を奪われるなどの壮絶なイジメにあった。父親は41歳で死去し、主に小児科医だった祖母に育てられた[8]。母親は産婦人科医で、多忙のため幼少時に育児にかかわる機会が多くなかった[8]。少年時代の夢は漫画家であった[9]。

東海高校を経て[1]、昭和医科大学(高須の入学翌年に現在の昭和大学に改称)医学部に入学[2]。大学時代には空手とアイスホッケー、山岳診療所に没頭していた時期がある。特にアイスホッケーについては「経験者が少ないスポーツでなら、一番が狙えるのではないか」との考えから昭和大学にアイスホッケー部を新設させ、自ら初代主将に就任した[10]。妻となった女性(高須シヅ)は大学時代の同級生であり席が隣であった。同じ三河地区の出身で同じく実家は医者だった[8]。1969年に同大を卒業[11][12]。

高須病院開設 編集
昭和大学卒後は整形外科医局に所属[13]。整形外科を選んだ理由は、家族・親族に医者が多く、同じ科を選ぶと喧嘩をしてしまうので、たまたま家族・親族にいなかった整形外科を選んだ[13]。同大学院医学研究科博士課程を修了し、1973年(昭和48年)に「四肢切断者の幻肢に関する研究」で医学博士(昭和大学甲第250号)を取得した[11][14]。妻は産婦人科に進んだ[8]。西ドイツのキール大学、イタリアのボローニャ大学ローマ大学などに研修留学した。1974年、愛知県幡豆郡一色町に医療法人福祉会高須病院を開設。ドイツで学んだ最新の整形外科技術を自分の病院にいち早く導入し、骨折患者の入院期間を大幅に短縮させた[8]。手術に必要なボルトやプレートは、まだ日本では手に入らないために海外から輸入して使用した[8]。しかし当時は長期入院を希望する患者が多く、短期間での退院は患者には不評であった[8]。また、入院期間を短縮させたことで、病院は減収となった[8]。

2016年現在、高須病院だけで約700人の職員を抱える[15]。1998年、高須病院の関連組織として老人保健施設訪問介護事業を立ち上げて介護福祉分野にも参入した[16]。介護老人保健施設「高須ケアガーデン」などの複数の施設(グループホーム訪問看護ステーション・デイケア・ヘルパーステーションなど)を運営する[17][18]。2008年(平成20年)、実家である高須病院を運営する医療法人社団福祉会の理事長に就任[19]。

高須クリニック開設 編集
ドイツで学んだ形成外科の技術がまだ日本で導入されていないことを知り[20]、未発達な日本の美容業界ならトップになれると考え、美容外科に転身した[20]。1976年11月、愛知県名古屋市高須クリニック開設[21]。1977年、著書『危ない美容法』がベストセラーになり、「美容整形の専門家」としてTVに出演するうちに、次第に注目を浴びるようになった[13][21]。

包茎手術 編集
90年代以前は包皮が陰茎癌のリスクを高めると考えられており、宗教的動機がなくとも割礼はしたほうが良いとする学説が存在した[22]。高須はこの学説と留学中に見たユダヤ教徒の割礼率の高さから商機を感じ取り、日本でも成人男性に対する割礼(包茎手術)を推進[23]。TVや雑誌で行ったマーケティングの影響で、大盛況となった[24]。このマーケティングは巧妙を極め、日本全国に健康な包皮(所謂仮性包茎)も切らないと恥であるという価値観を定着させたという[23][24]。高須は韓国にも技術指導していたので、高須の影響により韓国での徴兵時の身体検査で包茎チェックが必須項目になった[24]。簡単に手術が出来る方法を考案し、1日300人の包茎手術をしたこともあった[8][24]。レーザーメスで包皮を焼く匂いがビルに充満し、他のテナントより「人を焼く匂いがする」と苦情が来たり、火災警報器が作動したりすることもあった。しかし、包茎手術に依存しての経営は高須の本意ではなく[8]、ブームの終了と共に女性向け美容整形への移行に腐心することになる[8]。その後、割礼の弊害と包皮の利点が明らかになる[25][26]につれ、いたずらに日韓の男性を貶めたのではないかとの非難が起こった[24]。なお、現在の高須は「ハゲもよい、包茎もよい、ブスもよい。それなりに利点もある」と述べている[27]。

経済的成功 編集
「年収は50億」とも言われ[4]、またアメリカン・エキスプレスのセンチュリオンカード(通称ブラックカード)を所有している[4]。1985年から1988年の3年間の所得は合計16億8000万円だった[28]。2003年の個人納税額は、当時のトヨタ豊田章一郎名誉会長の6300万円や奥田碩会長の4700万円を大きく上回る8700万円だった[29]。2001年には、国内に札幌、仙台、横浜、東京、名古屋、大阪、広島、福岡の8箇所のクリニックと[21]、マニラ、香港の提携クリニック、ハワイ高須クリニックなど合計13か所のクリニックを有し[8]、年商は41億円だった[21]。バブル崩壊では不動産投資の失敗もあり100億円の借入金を背負うが10年間で完済した[30]。2016年現在は、東京(赤坂)、横浜、名古屋(名駅・栄)、大阪の5つのクリニックを運営する[31]。

美容外科の指導者として 編集
2011年(平成23年)1月11日、昭和大学にて医学部の形成外科学(美容外科学部門)客員教授に就任した[11][32]。新しい美容形成技術の開発も多数あり、指導者として日本のみならず世界各国に招聘されるようになり、各国でデモ手術や講演会の開催を重ねた。韓国でも美容形成が盛んであるが、これも高須が韓国で実技指導を行って普及したものである[24]。韓国の軍政時代では美容整形がタブー視されており[33]、多くの韓国人が日本に美容整形を受けに来日していた[33]。しかし帰国後のサポートが韓国内で出来ないために、高須が韓国内の医師に講義を行ったり手術見学をさせてその美容技術の向上に尽力を行った[33][34]。その結果、高須が導入した技術がそのまま韓国で普及したので、韓国で美容整形した人は全部同じような顔になってしまった[24][33]。なお高須曰く患者の希望を叶えるために施術するのであって、不格好な体にも良さはあると述べている[27]。

日本美容外科学会会長、国際美容外科学会会長[8]、日本脂肪吸引学会会長なども歴任した。アメリ脂肪吸引学会の創設メンバーとしても活動した。新聞や雑誌などにも、皮膚科領域や美容領域の話題に関するコメントだけでなく、識者として政治的話題に関する意見も掲載されることが多い[2][35][36][37]。70歳を超えても、1日に70人の美容整形手術をこなす[38]。